駐夫です。
今日もご訪問頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。どうもありがとうございます。
唐突だが、今でこそ、駐夫・主夫しているものの、我が子と対面するまで、実は子どもが大の苦手だった・・・
子どもの存在が自分事でなかったこともある。友だち、親族、知り合いの子どもを抱っこさせてもらっても、その数秒の瞬間だけの出来事との認識。可愛く思えず、素早く手放して終了。およそ、自分が子どもを持つイメージすら想像できなかった。あえて、シャットアウトしていたのかもしれない。
電車、公共の場、お店、道等々、泣いている赤ちゃんを鬱陶しく感じていた。
ベビーカーを押して歩いているファミリーに対し、我が物顔で歩くなよ、、と冗談抜きに思っていた。
マタニティマークを付けたママ、プレママを見ても、何の感情も抱かなかった。
なぜだろう。
本質的に、子どもが嫌いだったからか。周囲からは「〇〇が子どもを育ててるイメージがまったく湧かない」「子育てムリでしょ」などと、100人中500人から言われていた笑
それもあるが、第一子を授からずにそれなりに苦労していたころは、こうした思いが倍加していた。破顔一笑で子どもを連れているママ、パパ、ファミリーが疎ましかった。眩しく見え、直視するのが辛かった。。。
それから数年。
駐夫、主夫をしているのだから、人間なんて変わるものだ。先の人生なんて、誰にも分からない。運命なんて、どう転ぶか想像できない。私の場合、間違いなく運命は好転している。
我が子が可愛い理由は、ここで何文字費やしても良いのだが、当たり前のことだから、縷々述べるのは避ける。
タイトルのごとく、自分の子どもが可愛ければ、わが子と交流する他人の子どもにも関心が向かう。そして、可愛く思える。
他人の子どもが自分の子どものように感じられる。病気やケガをすれば、嬉しいことがあれば、他人事とは思えない。心配できる。
この考えを拡大し、発展させれば、世の中全体の子どもが可愛く思える。世の子どものために、自分ができることは何なのか?という着想が自然と出てくる。
以前も少し書いたが、幼子に対する虐待のニュースに接するにつれ、自ずと涙が流れてくる。様々な事情があったとはいえども、容認できない。
駐夫・主夫という貴重な経験をしている自分にしかできないことって何だろう?
こんなことを日々、考えている。