駐夫です。
蟄居が始まってから、6週目が終了した。早いものである。
振り返ってみれば、
前半の3週間は「頑張りすぎた」
後半の3週間は「自然体だった」
ということになろうか。
最初の2週間は、とにかく慣れるのに精一杯。プリント中心だった子どもの勉強を付きっ切りで面倒みながら、3食すべて自分で作り、自分の時間を捻出しようとしていた。
完全オンライン学習に移行した3週目からは、付きっ切りの必要はなくなったが、それでも手がかかることには変わりなし。週イチでデリバリーをまぶし始め、若干の負担は軽減されたものの、自分時間が削られたことにひとり立腹し、不協和音を醸し出していた。
4週目以降は、デリバリーを週2回(フロムエーが発売されていた曜日。分かる人は同世代笑)に増やした。お店選び、メニュー選びが、夫婦間での楽しみのひとつとして共有できるようになった。無論、子どもの希望も交えながらではあるが。
子どものオンライン学習もすっかり板に付き、サクサク進めてくれるようになった。付きっ切りの必要はなくなったとはいえ、何かあれば呼ばれるため、近くにいなければいけないことに変わりはない。
この間、最も頭を悩ませていたのは、子どもの教育だ。学校再開後、周りの子から遅れないように、ただでさえ英語でハンディを背負っているので、なおさらしっかり教え込まなければ、、と私の方が力んでいた。
しかし、教職も持っていない私は、勿論勉強を教えるプロではない。調理師免許を持っていない私は、料理をつくるプロでもない。
勉強を教える先生がいて、料理をつくるコックさん・料理人がいるのは、プロではない人たちができないことを代替してくれているためでもある。
どんなに勉強を熱心に教えようとしても、そこは親子。余計な感情、関係性が邪魔をし、思う通りに進展しないことが多々あった。お互いに。
学部時代さらには、マスター・ドクター時代にしっかりとしたトレーニングを積んできた先生に敵うはずがない。どんなに逆立ちしようとも。
「頑張る」という言葉は、日本人が大好きな言葉の一つ。ただし、時には自分自身を追い込みかねない、負の側面が多分に込められている。
勉強が遅れるのが心配であることは変わりないが、親が頑張りすぎたところで、子どもがオーバーフローを起こしてしまったら、何の意味もない。
だから、敢えて言おう。
「頑張らなくてもいいじゃない」
熱心に教えていれば、親子なんだから、その情熱は熱伝導の如く、伝わるはず。それを、わざわざ「頑張ろう」というフレーズで括る必要もないでしょう。
こんな時だからこそ、自然体で臨みたいものである。